旭川女子中学生いじめ凍死事件についてと、私の活動に対しての基本的な考え方

事件についてのリンク
旭川女子中学生いじめ凍死事件 – Wikipedia
いじめ。少年少女の自殺が後を絶たない – リーゼント刑事 秋山博康 公式ホームページ
「娘の遺体は凍っていた」14歳少女がマイナス17℃の旭川で凍死 背景に上級生の凄惨イジメ《母親が涙の告白》 旭川14歳少女イジメ凍死事件 #1 – 文春オンライン

 ここ数日、この事件から目が離せない。この事件は、家庭・学校・教育委員会・警察・政治・報道・ネットなど現代日本の抱える多くの問題を含んでいる。

 今回は、この事件についてだけというわけでは無く、私が、虐待を始めとした様々な問題をどのように捉えているかを、私の経験を順に追いながら、なぜそのように考えるに至ったかを出来るだけ理解してもらえるように書こうと思う。そして、私が考える社会をより良くしていく為の提案も書こうと思う。

 私の通っていた幼稚園はキリスト教系の私立幼稚園で、火遊び、登山(歩く方角だけ決め、道のない場所をかき分けながら歩く)、川の中を首までつかりながら海まで歩く、等の活動を行う幼稚園でサバイバル能力を鍛えられた。小学校は被差別部落の子ども達が通う為に作られた学校で、部落差別を中心にあらゆる人権教育に多くの時間を費やした。
 私が小学5年の時、当時中学2年だった兄が不登校になり、家庭内暴力、自殺未遂、家の2階から外の道路に向かいレンガを投げるなどし、母は泣き叫び、父は怒鳴り、母に暴力を振るう等の時期がしばらく続く。
 この時、兄と少し接点のあった不登校の女子中学生が自殺した。私は直接会ったことはなかったが、その中学生と親しかった人から話を聞くなどし、影響を受けた。この頃から、家にあった不登校関連の本を読むようになる。
 中学では吹奏楽部でトランペットを吹き、バンドを組みエレキギターを弾き、ピアノも続けるなど音楽活動ばかりしていた。
 兄が入学した、不登校の子を受け入れている愛知県にある全寮制の黄柳野高校に文化祭等のイベントで何度か行き、生徒たちの圧倒的なユニークさに強烈に惹かれた。
 多くのユニークな人に出会い、不登校や人間についてもっと知りたいとの思いから、高校は、その年に新しく出来た単位制多部制(朝・昼・夜の部に分かれている定時制のような)西宮香風高校に入学した。
 そこには、非常に様々な人がいたが、虐待、いじめ、障害、差別、孤児、病気などで精神に大きなダメージを負った人とも多くの時間を共にした。そこで、今の妻と出会い、妻の詩に曲を付けた事が現在の活動へとつながっていく。
 高校を出た後は、当時、百姓を志しており、兵庫の北の方で百姓修行→夜逃げ、島根で百姓模索→介護→旅館→挫折、静岡でカルト集団に入る→失踪→警察に保護→逃げ帰る、ポリテク(職業訓練所)で溶接を学ぶ→現在鉄工所勤務。

 高校では、心に大きなダメージを負った多くの人や、非常にユニークな個性の持ち主と多く出会った。その経験から言えば、現状のシステムの学校が彼らに適切に対応することは絶対に不可能であると断言できる。その理由は「違い」と「分断」がキーワードになる。
 人間は一人ひとり全く違う個性を持っていて、そのユニークさに限度というものはない。多くの人は、自分が見たり聞いたり、学習してきた経験を元に世界を捉える。教員になれる人は、当然、教員になる為の教育をクリアしてきた人である為、多くの場合、不登校になる理由を実感できず、自分の経験を元にアプローチをかける。例えば、そういった人が身近にいて、上手く安定した生活が出来るようにサポートした経験のある教員は少ないと思われる。そうして、多くのユニークな人は、非常に画一的で排他的な価値観を押し付けられ、それらに適応出来ずに精神を病んでしまう事になる。
 少し話はそれるが、最近、驚き、嬉しく思う事があった。岐阜市に不登校に特化した公立中学校「岐阜市立草潤中学校」が出来た。本来すべての学校がこのようであるべきだと私は考えている。私は知らなかったのだが、この様な不登校特例校は日本に公立私立合わせて現在17校ある。
 精神を病んでしまう原因は学校だけではない。子どもの精神が病んでしまう場合、多くの場合、親も同様の理由で適切な対処が出来ていないと言える。
 その意味で私が社会に広く訴えたいことの一つは「人は一人ひとり全く違う」と言う事だ。あのADHDの人はこの方法で上手く行ったから、このADHDの人も同じ方法で上手く行くだろう、とか健常者だからこれは出来るとか、そのような発想は、人の心を蝕んでいく。
 新しい人との出会いは、常に全く新しい未知の世界との遭遇である。そして私たちが考えるべきことは「私とあなたの「違い」をどのように活かし、互いがより輝いていくか」しかないと私は考えている。

 多くの人は様々な「違い」を元に、「私達」と「私達以外」を分ける。それは、国・人種・健常・障害・地域・学歴・収入・地位等なんでも良い。そして、生物の本能として、仲間を守ろうとし仲間以外は殺しても良いと思っている。
 私は妻と出会い、虐待について学び始めるまで、どこかで、虐待など遠い世界の話だと思っていた。それまでは虐待のニュースを見ても「かわいそうに」位にしか思わなかったのが、いつしか、毎回、胸がえぐられるような心の痛みを伴うようになった。その痛みが私がこの活動をしている動機である。
 以前の私がそうだったように、虐待の被害者や加害者と、そういった事に縁がない人の認識は大きく異なり、断絶している。虐待の被害者が被害を他者に訴えても、その深刻さを理解できる人はほとんどおらず、むしろ親を擁護する者も多くおり、やがて被害者は訴える事を止め、精神をより深く病んでいく事が多い。
 虐待が発生するようなハイリスク家庭は似たような家庭同士で関わり、集団を形成する。そして、そうではない家庭の集団は、その集団を異質なものとして避けようとする。そして、ハイリスク家庭は社会から断絶され密室化し、地獄と化す。
 虐待にしろ、今回のような事件にしろ、多くの人にとって滅多にないような事に思えるかもしれないが、実際には、全く珍しくはなく、私が高校に入って以降、かなりの数の類似の出来事を、当事者から聞いたり、目の当たりにしたりしてきた。そして、多くの場合、報道されることは無い為、一般の多くの人にとって珍しい事と捉えられる。

 学校や役所、警察、社協等と関わる中で、私は、組織や法律は被害者や問題を抱える人を助ける為ではなく、「私達はルールに則り行動したので責任は十分果たしたし、悪くもない」と言い訳する為にあるものだと感じるようになった。個人単位でみれば、素晴らしい人はいくらでもいる。しかし、子どもも大人も次々に命を失っていっている現状を見れば、そういったものに何かを期待することは全くできない。
 今回の事件で言えば、加害者がなぜ加害するような人格に育ったのか、どのような家庭環境だったのか、親はどのような人物で、どのような環境で育ったのかを検証する必要があるし、被害者の親も、学校や教育委員会や警察が、被害者の命を守るという観点からみれば、何の役にも立たない組織である事を知らなかったと言える。自分が何らかの被害を受けた事のない人にとっては意外な事かもしれないが、そういった組織の出来る事は限定的であり、ましてや死人を生き返らせる事は誰にも出来ない。

 何らかの理由で、負の連鎖にはまり込んでいる人は、自力だけでそこから出る事は決して出来ない。本人の意思、専門家のサポート、家族、友人、学校、職場などの協力を得、回復する為の環境を整える必要があるが、現実的には非常にハードルが高い。なんとかその環境を手にしたとしても、回復には数年から数十年の時間がかかる。

 これらの問題は、どこかにいる誰か「悪い人」を責めても解決しない。この問題を継続させているのは、「認識の分断」である。遠い世界の話と感じていたり、犯人を責めたりしても、決して未来の被害者を減らす事は出来ない。私たちの活動は、歌や劇を通して、想像力を膨らませてもらい、身近に感じてもらうことで、この認識の分断を繋いでいくことを目的の一つとしている。

 過去の研究から、刑罰をどんなに重くしても犯罪を抑止する効果の無い事がわかっている。そうであれば、加害者がどうして加害者になったのかを知り、それを周知し、より良い子育て環境を作る事が効果的だと私は考えている。

 廣瀬爽彩さんの命を守れる可能性のあった人や立場にあった人はいくらでもいた。誰か、たった一人でも、命を守る為の適切な行動を取る事が出来ていれば、死ぬ事はなかった。いつ、どんな時に人が死ぬかと言えば、いつでも、どんな時でも、死ぬ。〇〇だから大丈夫と言う事はいついかなる場合でも存在しない。
 人の命を守る鍵は、どこかの誰かではなく「あなた」の認識にある。当然、私であり、私達一人ひとり全員の認識でもある。

 私は、虐待を始めとした多くの問題を解決する為に、まずは、「自分との関係」を良好にする事を提案している。これは、人によっては、最も難しい事となる。自分を大切にし、自分と良好な関係性を育む事が出来れば、それは、自分以外の自分にとって大切な人を大切にし、良好な関係性を育む事と同義である。その良好な関係性の連鎖を広げていけば、必ずその先に、救われる命がある。

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